5年前まで、僕はずっと同僚から、「愛されない、認められない」と感じていた。
仕事は一生懸命がんばっていた。
自分なりにだけど、他人のこともできるだけ大切にしようとしてきた。
でも、愛されない。認めらない。そんな風に感じていた。
その一方で、僕から見ると仕事がデキない人や、空気を読まずに自由に働いているように見える人のほうが。
愛されている、認められているように見えた。
どうして世の中はこうも理不尽なのだ。そう、いつも怒りを感じていた。
しかしここ数年、無理してがんばるのをやめて、わがままに生きるようになってみると。
職場の同僚から愛されている。認められている。そう感じるように変わった。
どうしてこんな不思議なことが起きるのだろうか。
あらためて自分の経験をふりかえって、考えてみた。
わがままに生きると、他人から愛されてしまう。認められてしまう。
少なくとも、自分自身はそう感じるようになる。このことについて、今日は書いていこうと思う。
今日も早速いってみよう!!!
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昔は「愛されてた、認められてた」と「感じられなかった」
今だからこそわかるが、当時の僕はすでに同僚から愛されていたと思う。認められていたとも思う。
ただ、当時の自分はそのことを「感じること」ができなかった。それが問題だった。
どうして「感じる」ことができなかったのか。
それは、今思うと。
僕の前提が「愛されない、認められない」だったからだと思う。
「自分は愛されない、認められない存在なのだ」と。無意識の深いところで、信じていたように思う。
人は自分が見たいように世界を見る。解釈すると言われている。
たとえば全く同じ職場に二人の人間がいたとして、片方は「同僚はひどい人達だ」と言い、もう片方が「同僚は素晴らしい人達だ」と言うケースがある。
二人とも同じ職場にいるのに、こうして評価が異なるのは、2人の世界の見え方が違うからだ。
「僕のまわりには、ひどい人が集まる」と信じてる人にとっては、同僚はひどい人達に映る。
「僕のまわりには素晴らしい人が集まる」と信じてる人にとっては、同僚は素晴らしい人達に映る。
僕の場合は、「自分は愛されない、認められない存在なんだ」と信じていた。
だからこそ、「愛されている、認められている」という現実が目の前にあったにもかかわらず、それをそのまま受け入れることができなかった。
わがままに生きると、「感じ方」が変わる
しかしおもしろいことに。
5年程前から、わがままに生きるようになって。僕は「自分は愛されてる、認められてる」と感じるようになった。
それは、「素の自分」が受け入れられているという感覚があるからだと思う。
それまでの僕は、がんばらないと。人のことを優先しないと。
愛されないし、認められない。そう、思ってきた。
でも、そんなことしなくても、そのまんまの自分でも、人から受け入れられる。
そう感じられるように、変わった。
僕は愛されてる。認められてる。
そう感じるようになった。
無理してがんばってしまうのは、「そうしないと愛されない」と思ってるから
昔の僕がそうであったように。
あまりにも多くの人が無理してがんばりすぎてしまうのは、「そうしないと愛されない、認められない」と信じてるからだ。
自分はがんばって他人の役に立たないと、自分は愛されない、認められない。
その「前提」を変えない限り、僕達は自分がすでに愛されてること、認められていることを受け入れることができない。
むしろ、自分が愛されていない。認められていない。その証拠を、集めようとしてしまう。そのように、現実を見てしまう。
なぜなら、「自分はがんばって他人の役に立たないと、自分は愛されない、認められない」。
そう信じているからだ。
まとめ
愛されたい、認められたい。そう願うなら。
ムリしてがんばることをやめて、わがままに生きることだ。
無理してがんばることをやめて、自分がやりたくないことをやめていくことだ。
できるところから、少しずつでいい。僕も、少しずつはじめていった。
そうしたら、半年も経たずに、「愛されてる、認められている」と感じられるようになった。
信じられない話かもしれない。それはそれでいい。
今の時点では、「そうなのかもしれない」と思ってさえもらえれば、僕はいいと思っている。
僕の体験は、本に記した。もしよかったら、拙著も読んでみてほしい。
あなたが昔の僕のように、同僚から「愛されない、認められない」と感じてるなら、きっと役に立つ。
ということで、参考にしてほしい!!!